理事コラム Vol.4

-労働安全衛生における、昭和モデルからの脱却を目指して-

今年度より、当協会理事を拝命いたしました佐藤武夫と申します。東京で30年間、ガラスクリーニングとロープ高所作業に携わってきました。

私は、『一般社団法人東京ガラス外装クリーニング協会』という、前身団体もふくめると半世紀近い歴史を持つ、ロープ高所作業における業界団体に所属し、数々の悲惨な墜落災害に接し、事故原因の調査や災害当事者へのヒアリングも経験してきました。また、厚生労働省の専門官とともに都内のガラスクリーニング事業者を対象とした安全パトロールを定期的に行っております。

そこで強く感じるのは、日本のロープ高所作業には、まだ「コンピテンシー(能力)」を体系的に育て、維持する仕組みが十分に機能していないのではないかということです。そして、建物側にもアンカー設備の不備が多く、作業する側が代用品を使用してうまく対処しているケースが目立ち、ロープ高所作業において我が国は法整備も含め、まだまだ発展途上の段階にあることを痛切に感じております。

ガラスクリーニング業における現場では、ロープの結び方を正しく習得していない作業者が大多数を占め、PPE(個人用保護具)とシャックル、グリップ式墜落阻止器具の組み合わせや、アッセンダー(登高器)を墜落阻止器具として使用するケースも存在し、ロープと器具の規格が適合していない事例もしばしば見受けられます。

平成27年に「ロープ高所作業特別教育」が法制化、平成28年に施行されたことは、ロープ高所作業を法律上明確に位置付けたという意味で、大きな前進でした。しかし、それから10年が経過した現在も、全国各地で墜落死亡災害が発生しています。
もちろん、特別教育が災害防止に何の意味もなかったということではありません。しかし、「教育を受けたこと」と「安全に作業できる能力を身につけたこと」は、本来、同じではありません。

ここに日本の労働安全衛生制度が抱える大きな課題があるのではないでしょうか。

日本の労働安全衛生制度は、免許、技能講習、特別教育という3段階の仕組みによって、過去に多くの労働災害を減少させてきました。これは歴史的に見て偉大な成果です。
しかし、この制度が作られた高度経済成長期の時代と、半世紀を経た現在の労働現場の環境は大きく変化しています。

現在のロープ高所作業に必要なのは、単に「特別教育の講習を受けた」という事実ではありません。

ロープ高所作業のシステム、フォールアレスト(墜落阻止)の理論を理解し、適切なPPEを選択し、リスクを評価し、作業前にレスキュー計画を立て、そして一定の能力を継続的に維持し、適切な安全管理者の配属と指揮系統の明確化が必要です。

海外の産業用ロープアクセスでは、IRATAやSPRATなどに代表される、国際基準のロープアクセス団体が、訓練、評価、資格認証の仕組みを設けています。それらの団体の行動規範においては、スーパーバイザーやロープアクセスマネージャーの責任を明確にした階層にもとづき、現場管理、日々の実務記録や点検記録の文書化、リスクアセスメントにもとづく、レスキューを含めた作業計画の策定などが行われます。団体が認定する資格の更新やアップグレードにおいては、多くの場合トレーニングが含まれ、第三者機関による能力(コンピテンシー)の評価が行われます。スーパーバイザー(作業責任者)になるまで多くの実務経験が必要とされます。

日本の労働安全衛生規則においては、事業者が選任する作業指揮者のコンピテンシー(能力)について、知識、技能、経験値、適性などについての詳細は無く、事業者に基準がゆだねられています。能力不明の作業指揮者が、1日の特別教育を受けた作業員を監視して作業を行うという危険な状況が発生するため、現在ロープ高所作業における墜落災害は、起こるべくして発生しているのです。

私は、日本の労働安全衛生制度も、単に法令上の教育要件を満たすだけでなく、継続的改善の仕組み(PDCAサイクル)を備えた国際基準の方向へ進む必要があると考えています。
「特別教育を受講した人が作業する」という発想だけではなく、「人も組織も必要なコンピテンシーを持ち、能力を維持し、安全を管理し続ける」という考え方です。

特別教育を受ければ、一日でロープ高所作業に必要な法的要件の一部を満たすことができます。しかし、それが「これでロープ高所作業をしてよい」という作業許可証のように受け取られてしまえば、本来の教育の意味とは異なります。
特別教育によって参入障壁が下がったこと自体は、産業の裾野を広げるという意味では重要です。しかし、能力を評価・維持する仕組みが伴わなければ、結果として安全水準まで下げてしまうのではないでしょうか。

私は、労働災害におけるこの本質的課題について議論をしなければならない段階に来ていると思います。
また、現場で使われている器具やPPEについても、「古いから危険」「新しいから安全」という単純な話ではありません。

私が所属するガラスクリーニング業において、長年見てきた現場では、径の太い三つ打ちロープやシャックル、グリップ・スライド式墜落阻止器具など、いわゆるロープアクセス用PPE(個人用保護具)ではない「代用品」を組み合わせた従来型の作業方式が存在しています。そして、私が把握する範囲において、この作業方式で過去に災害が頻発してきたというデータはありません。むしろ、近年多発している墜落災害の多くがロープアクセス用PPE(個人用保護具)を導入、使用し、発生しているのです。

ロープアクセス用PPEだけを導入しても、それを正しく使用するための教育、訓練、管理体制がなければ、安全性が自動的に高まるわけではありません。
むしろ、「高性能なPPEを持っているから安全」という誤解を生む危険があります。
安全とは、PPEではなく、PPEを正しく選び、正しく使い、リスクを予測し、異常時に対応できる人と組織によって成立するものだからです。

そして、もう一つ無視できないのが経済的な問題です。
円安や同業者間による価格競争なども影響し、企業にとって安全教育やPPEへの投資は決して小さな負担ではありません。IRATAやJIRAAなどの国際基準の教育を全作業員に受けさせ、継続的に訓練することが、小規模事業者にとって現実的には難しいのが現状です。

安全を求めるあまり、教育費や設備費が高騰し、それを負担できる企業だけが安全教育を受けられるという状況になれば、それもまた別の問題です。
だからこそ、これから必要なのは、企業だけに安全を背負わせる仕組みではなく、行政、業界団体、教育機関、企業が連携し、能力を身につけ、維持できる環境を整えることではないでしょうか。

「法律を守っているから安全」ではなく、「なぜ安全なのかを説明できる業界」をつくる。
「講習を受けたから作業できる」ではなく、「必要な能力を身につけ、維持しているから作業できる」。

日本の労働安全衛生は、これまでの昭和型の「特別教育・OJT」という枠組みから、リスクアセスメントにもとづく作業計画、コンピテンシーを維持するための継続的トレーニング、そして組織としての継続的改善を目指した安全管理へと進化する必要があります。
ロープ高所作業の死亡災害を本当に減らすために、私たちは「何を持っているか」だけではなく、「何ができるのか」「組織としてどう安全を管理しているのか」を問い直す時期に来ています。

当協会としても、現場で働く人たちの声を大切にしながら、教育環境の整備、リスクアセスメントの普及、そしてロープ高所作業における労働災害ゼロを目指して、業界の未来を切り拓いていきたいと考えております。
その具体的な取り組みの一環として、本年10月より三水翔太氏を講師としてお招きし、『実践型リスクアセスメント講座』を開設する運びとなりました。
組織としての安全管理能力を高める絶好の機会となりますので、皆様のご参加を心よりお待ちしております。

佐藤武夫
佐藤 武夫

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